時が止まる部屋



 兄を失った数週間。
 当座やらなければならないことを早急に片付けたラーサーは、めまぐるしい日々の狭間で、先延ばしにしていたことを、今やらなければと思って、ある部屋の前で立ちつくしていた。
 そこは、兄・ヴェインの部屋だった。
 バハムートに乗ってからというもの、ここ一月ほど、誰一人この部屋に入るものは居なかった。
 それでも、やらなければ、とラーサーは思って深呼吸をした。
 父の遺品の整理が終わったばかりだというのに、次は兄の遺品の整理か、と思うとラーサーは胸がつぶれそうになるが、自分よりももっと辛い人間はこの世の中に沢山居るはずだから、と弱音を飲み込んだ。
 臨時独裁官として皇帝宮にとどまることが出来る間に、自分にやれることを。
 今の情勢では、ラーサーが皇帝に推挙される可能性は、微妙なところだった。
 ソリドール以外に皇帝の責務を全うできるものは居ないという反面、これ以上ソリドールを許して良いものかという批判も出ている。
 だからこそ、もし、皇帝になれなかった場合を考えて、ラーサーはやるべき事を全うしなければならなかった。
 そして、この兄の部屋の―――遺品の整理も、自分には『やるべきこと』の一つだった。
(ダルマスカとの和平交渉に加えて友好宣言。ロザリアとも何とか停戦にこぎ着けたし、不必要な軍備も削った。……ブルオミシェイスにも謝罪の運びは整っている……)
 この難局を乗り切って貰うのに、『ジャッジ・ガブラス』となった男も、ゆくゆくはダルマスカに帰してやらなければならない。
 躊躇う時間はない。兄の遺品の整理などに………、躊躇うことはない。
 ラーサーは一つ呼吸してから、兄の部屋に入っていった。
 兄の好んで使っていた香油の香りが、薄く漂っていて、それをラーサーはひどく懐かしく感じた。
 部屋の中は、異様なほど綺麗に片づいていた。
 本棚の本は、全て取り除かれ、ベッドも整えられ、クローゼットも手入れの行き届いた政務服が掛かっていた。戸棚の中には、兄が好んで飲んでいた、茶や酒、ラーサーが来たときに振る舞ってくれる菓子などがあったはずだったが、全て片付けられていた。
「……な……なぜ?」
 部屋は至る所まで綺麗に片付けられており、ごみの一つも落ちては居なかった。
 執務机の上には、いつも好んで使っていたインクとペンがあるはずだったが、それすら無く、ラーサーは、唇を噛んだ。
 ラーサーの目の前では、兄は今まで、その『冷酷』とされる所を見せては来なかった。
 けれど、あの時、バハムートで、兄は曳航した無抵抗な艦隊を撃破し、そして、破滅への階段を転げ落ちるように、滅んでいった。
(あれは……兄上の、最後の『講義』だったんだ……)
 人の道を踏み外してまでも、自分を気遣っていたことはラーサーにも解った。全てを、託してくれたことも、解っていた。
 それでも、やはり、ラーサーは思う。

 こんな方法しかなかったんだろうかと。

 もう少し早く、全てに気が付いていれば、兄を止めることは出来ただろうか。
 もう少し早く、兄の孤独と、ラーサーに託し続けていた希望に気が付いて居さえすれば……。
 こんな事にはならなかったのではないだろうかと。

「兄上………『私』は、兄上の笑顔がお好きでした。本当は、兄上はお優しくて………それ故に、深く傷ついて、孤独で在られたことは、知っています。もう少し、私が、大人だったら、兄上のお心も、兄上ご自身も、お守りできたでしょうか」
 問いかけるが、相手はもう、ここには居ない。
 そして、おそらく聡明な兄は、シドやヴェーネスと手を組んだ時点で、あの結末を思い描いていたのだろう。
 だからこそ、バハムートに乗り込む前に、こうして、身辺整理をして、逝った。
 死後、この部屋をあれこれ探られるのをヴェインは嫌ったのだろう。それは、兄上らしいな、とラーサーは思った。不意に、机の中が気になってラーサーは兄の愛用の机の抽斗を開けようとした。
 しかし、鍵が掛かっている。諦め掛けたとき、昔、兄が、『秘密の戸棚に鍵を置いておくよ』と笑ったのを思い出した。
 秘密の戸棚………それは、部屋備え付けの浴室に在るはずだった。浴室も、綺麗に片づいていた。最後に身支度を整えた香油さえ、そこには見あたらず、髪の一筋さえ落ちていないと言う徹底ぶりだった。
 ラーサーは、『秘密の戸棚』を探ると、そこに、小さな鍵を見つけた。
 鍵を持って机に向かう。机は、たやすく開き、その中に、いくつかのものが入っていた。
 兄の日記らしき書物。それに、封蝋が施された書簡。その表書きには、『ラーサー・ファルナス・ソリドール殿』と走り書きがされていた。
「兄上………手紙……?」
 おそるおそる開いてみると、そこには几帳面な字が綴られていた。兄の文字だ。胸が熱くなった。

『愛するラーサー

 お前がこの手紙を見ていると言うことは、私はこの世には居ないということだ。
 兄は、愚かな人間だったが、お前の兄で幸せだった。
 お前が純真な親愛を向けてくれていたことが、私の幸せであり誇りだった。
 お前が統べるこの帝国を見てみたかったが、それは叶わない願いだ。

 兄は、こういう結末を迎えるが、それでも、お前の傍にいることが幸せだった。
 お前はきっと、ソリドール家の最後の一人として、この国を導いていくことだろう。
 その際に、なんども、選択に迷うことがあるだろう。

 その時は、お前の信じる道を選びなさい。
 兄は、この結末を信じて、今まで生きてきた。そのことを幸福だったと思うが、不幸だと後悔していない。
 ラーサー。
 お前のその純粋な瞳が、悲しみや憎しみに濁らないように、君が幸福で笑顔で居られるように。
 祈る資格もない兄だが、最後に兄は、それだけを望みます。

 君の往く道が、幸福に満ちていることを。

 ヴェイン・カルダス・ソリドール』


 兄の遺品に関しては、同封の鍵で銀行の貸金庫に預けている旨が書かれており、その主な品のリストも記されていた。その中には、先帝や皇后、二人の兄たちの縁の品や、国内外でも貴重品となって居る書物などの知的財産、ソリドール家に伝わる宝刀などが記されていた。ヴェイン個人的なものは、何一つ無く、それは、この机の抽斗の中だけだという。
 机の抽斗の中は、日記と、時折執務の際に使っていた髪留め、それにインクとペン。愛用の香油だけだった。
 日記を開いて、何日分か読み進めると、その時の世界中の情勢がつぶさに見て取れた。アルケイディア・反乱軍・ビュエルバ・ロザリア、それにラーサーの動きまでもが同時に把握できる。
 それをみて、ラーサーは、やはり、兄は軍事の天才だと思った。
 どこから仕入れてくるのか、街の小さな噂話――新執政官になってから、物価が少し上がっただとかそういう些末な話だ――や、部下達の動き――は、部下達のプライベートな動きまで、多少カバーしていた。
 国と、そこに暮らす民のことを本気で考えていなければ、こんな事は出来ない。
 ふいに、日記から何枚かの写真が舞った。
 幼子を腕に抱く美しい女性。それと、三人の子供達。父親らしき男………よく見てみると、色あせている上に経年劣化していたが、それは、父帝やヴェインの少年時代のものだった。
「では……これは………」
 赤子をまじまじとみて、ラーサーは唇を噛んだ。
 ラーサーが生まれた翌年には、ヴェインは二人の兄を殺害し、そして母親はそのショックで無くなっている。
 家族全員でとれた写真など、この時限りだったかもしれない。
 そのほかの数枚の写真は、ヴェインとラーサーが二人で映っているもの、ラーサーの写真。
 ラーサーは泣きたくなったが、涙を必死で堪えた。
 今は、泣いている場合ではない。泣きたくない。一通り、問題が片づくまで、泣きたくない。帝国の政情がもう少し安定するまで、泣くわけにはいかない。
「あなたは………バカだ……」
 欲しいものを手に入れることを諦めて、手を伸ばしもしないで。
 もしかしたら、手を伸ばしたら、手に入ったかもしれないのに。
 欲しいものを、全部、ラーサーに与えて、ラーサーを慈しんで守って、最後まで守って………死んでしまうなんて、バカのすることだ。
 ラーサーは手紙を抱きしめて、瞼を閉ざした。
「平和な時代など、夢物語なのかもしれません。………でも、思いを託してくれた方達のためにも、その理想を実現出来るように頑張ります」
 がんばりなさい。
 ヴェインが、そう言ってくれているようで、ラーサーは唇を噛み締めて、「頑張ります」と応えた。


 この部屋は、ずっと、このままにしておこう、とラーサーは決めた。
 大切なものを守るために、皇帝になろうと。二度と、兄上のような悲しい人を作らないように。
 一人でも多くの笑顔のために、皇帝になろう。
 そして、何かに迷ったとき、耐えきれないほどの孤独に押しつぶされそうになったとき。
 この部屋で、ひとり、消えていくことを決めた人のことを、思い出して、間違わないようにしたい。


 ヴェインとラーサーが幸せそうに笑う写真を取り上げて、ラーサーは後生大事にそれを抱きしめた。
 数日後には、兄の葬儀を、簡単に執り行う予定だ。
 空の棺を見送ることになると思っていたが、その中に、この写真を入れよう、とラーサーは思った。
 自分はまだ、兄の所に行くわけにはならないから、せめて思いを写真に託そうとおもった。



兄上……。
 『僕』も兄上が大好きでした。
 そこは、一人で寂しくないですか?
 何年先か解りませんが、ラーサーは必ず、兄上の所に参ります。
 それまで、すこし、待っていてください。



   たくさんのものを見て、たくさんの事を感じて、たくさんの人と触れて、たくさん勉強しよう。
   兄上に再会した時の、お土産にするために。
   きっと、長い間待たせてしまうから。その分を埋めるために、沢山、お話をしよう。
   伴侶となる人も一緒に。何十年もしたら、今度は、子供も一緒に。
   賑やかになるように、大切な人を、沢山増やそう。
   今度は、兄上が寂しくないように。


  だから。
「兄上にお会いできるまで、ラーサーは、泣きません」


 誓いの言葉は、風に消えた。
 

 時が止まる部屋・end





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兄上の死後のラーサー妄想。
タイトルは、七瀬京の『時が止まる部屋』から。>>http://www.myspace.com/nanasemijako
ヴェインの目的なんて、特になかったんだと思います。
不滅変化前なんか、完全に逝く気満々だし。
『シドが待ってる』って!!(涙)
あの短期間で、ラバナスタの人達からもそれなりに評価されてた人なのにね、ヴェイン。
もう少し、違う方向に目を向けていられたら幸せに暮らせたんだろうけど、ヴェインは幸せになることに引け目があったんだと思うんだ。

2009.03.07 shino