PERFUME 兄の書簡は、すぐに解る。 勿論、その明晰な人柄に相応しい筆致もそうだが、彼の使うインクが違う。特注で作らせているそのインクからは、良い香りがする。 そもそも、高級なインクを作るのに薔薇油を用いているのは良くあることだったが、それに、少し工夫がしてあるらしい。ヴェインにとっては、偽書を防ぐための策のひとつなのだろうが、この香りを聞くと、ラーサーは兄のことを思う。 忙しい中を縫って、ラーサーの元に足を運び、勉強や剣術の稽古を付けてくれたり、茶を楽しんだり、音曲を聴いたりもしてくれる。 無骨なだけの武人ではなく、知力と品性を兼ね備えた兄に、ラーサーは心酔していた。 公務の急な取りやめがあったということで、ヴェインはラーサーに剣術の稽古を付けてやっていた。まだ、未熟なラーサーでは合ったが、的確に長所と短所を言い当てて、アドバイスをする。 その鮮やかな指導に、剣術の担当教師も舌を巻くばかりで、そんな教師の様子を見て、ラーサーは非常に満足だった。 「ラーサーは筋がよい」 告げられた言葉に、ラーサーは「ありがとうございます、精進します」と返した。兄は、世辞や追従を嫌う。 弟可愛さに世辞を言うような人ではないということを理解しているだけに、ラーサーのうれしさはひとしおだった。 ヴェインは女官から手拭いを受け取り稽古の汗を拭いながら、「喉が渇いたな。お茶にしよう」とラーサーを誘った。 勿論、ラーサーは大歓迎だった。 兄と話をするのは、とても楽しい。一人では味気ないお茶の時間でも、兄が一緒にいれば幸せな時間になるのだ。 嬉しそうな顔をするラーサーに、穏やかな微笑を送り、ヴェインは席に着いた。 ヴェインの指示で趣味良く整えられた茶器。茶菓子も用意されているが、どれも身体によいものなのはヴェインの配慮だ。 料理長にこっそりお願いをして作らせている、というのはヴェイン本人の口からではなく、ラーサー付きの女官の口から聞いた。ヴェインのこだわりは相当で、油分や糖分が高すぎる菓子では駄目だという。従って、日持ちのしない菓子がメインになるが、兄の見立てた茶菓子は確かで、とてもおいしい。そして、あまり好き嫌いを口に出して言う方ではなかったが、ヴェインも甘い物を好んで食べるようだった。 向かいでなく、隣に座ったラーサーにヴェインは柔らかく微笑む。 ついつい、甘えてしまうが、正しくないことならば、ヴェインが注意をする。そう思ってラーサーはヴェインに甘えるのを憚らなくなった。 公式な場所ではやらないし、父帝が居るところでもやらない。ヴェインと二人の時だけ、ヴェインに甘える。 ヴェインもそうされるのが嫌いではないようで、優しく微笑んでくれる。それがラーサーにはとても嬉しかった。 いつものように紅茶に手を伸ばし掛けて、ラーサーはぴた、と動きを止めた。 「どうした、ラーサー」 「いえ………兄上から……、兄上の使っているインクの香りがしたので……」 「ああ」 とヴェインは苦笑した。「実は、執務中にインク瓶を傾けてしまったのだ………幸い、インクがすべて零れるようなことはなかったが、袖口が汚れてしまった。すぐに服を変えれば良かったのだが……」 思わず、ヴェインは言葉を濁す。 そのあと、執務が中止になったから急いでここに向かいたくて、服を着替えていないのだ。 「そうでしたか………兄上のインクの香りは、とても良い香りです」 「特に香りを重視したわけではないが、書き心地の良いインクを作ってもらった………前に使っていた物は、端々が滲むのが苦手だったからな」 「そうですか……」 「まぁ、コレを頼んだ店では、今は一般にも同じ物を卸していると言うからね。乾きが早く美しいインクならば、書類を上げる早さも上がるだろう」 ヴェインは袖口を見やりながら言う。 「兄上だけの香りではないのですか」 「ああ、違う。――――最も、少しだけ『特別』なのは、インクの調子を整えるのに、愛用の香油を一滴混ぜたことか」 「香油……?」 「髪と肌を整えるのに使っている」 ヴェインは波打つ髪一房を指に取った。それに、ラーサーが顔を寄せる。そこに、ラーサーが『兄の香り』と認識していた香油の香りがした。 「この香り、兄上の香りです」 「コレは、私の手製だ。――――職人にあれこれ注文するのも煩わしくなって、自分で調合をした」 「兄上がっ??」 ラーサーは意外そうな目でヴェインを見た。色々と細やかなこだわりがあることは知っていたが、ここまでとは。 「簡単なのだ、精油を混ぜて行けば出来上がる。………ラーサーも、もう少し大きくなったら自分の香りを見つけると良いだろう」 ヴェインの言葉にラーサーは頷いた物の、いま、この香りが欲しくてたまらなくなった。兄上の手製というのもあるし、兄上だけの香りというのもある。お会いできないときの寂しさを紛らわせたいという気持ちで、ラーサーは口を開いた。 「あの……兄上のその香油を、ほんの少し、ラーサーにも頂けないでしょうか?」 「お前には少し、落ち着きすぎた香りだと思うが」 うーむ、と真剣に考え始めた兄の姿に、ラーサーはかあっと赤くなった。兄とおそろいの香りを身に纏いたいのではなくて………。そう考えてみたら、とても女々しいことだ。 「お会い、できないこともあるので………」 ぽつり、とラーサーは呟く。恥ずかしいのだろう、耳まで真っ赤だが、ヴェインにはその様子が可愛く見えた。「兄上の香りを、近くで聞いていたいと思いました」 たまらなく可愛いことを言うラーサーに、「わかった」とヴェインは答えた。 「え? では、下さるのですか?」 「ああ、小さな小瓶を………ああ、丁度良い小瓶があるのを思い出した。それに分けてあとで届けさせよう」 「小瓶………?」 ああ、とヴェインは感慨深げに頷く。 「いつ、下さいますか?」 思わず催促してしまったラーサーに、ヴェインは微苦笑した。 「そうだな………あれは、私の別邸にあるのだ……」 「別邸………?」 「ああ………、少々、執務で込みいったことが起こると、そこに詰めるのに使っている。………皇帝宮では不都合なこともあるからな……」 ヴェインが別に私邸を構えていたというのは、ラーサーも知らないことだった。兄の言う『込みいった』ことが、そう穏やかな物でないことは、流石にラーサーでも解る。 「そうだな、明日、私邸に戻って小瓶を取ってこよう。―――明日の夜には、届けに来よう」 穏やかな優しい微笑み。 兄の微笑みは、時折、ラーサーから良い意味でも悪い意味でも思考を奪う。 「では、明日、お待ちします」 翌日、ラーサーはヴェインの到着を待っていた。 あのヴェインがわざわざ取りに戻るという『小瓶』は、一体どれほどの物なのだろうかと思う。日も傾き、そろそろ湯浴みをして眠る時刻だと言う頃に、ヴェインは現れた。 「遅くなって済まなかった………思っていたよりも汚れていてな……酒精で洗浄をしていた」 言い訳がましいことを言う兄も珍しい。ラーサーは、「そうでしたか」とだけ受けてヴェインの側に寄った。 ヴェインの傍ら。香しい香油の香りが漂う。ヴェインはラーサーと共に長椅子に移動してから、そっと懐から小瓶を取り出した。 美しい緑色の精緻なガラス細工は、所々に金線で装飾が施されている。これほどまでに見事な美術品は、名家の女性が使用する物だ。それに、ラーサーは、チクリと胸が痛み、素直に兄の持ってきた小瓶をうれしがることが出来なかった。 てっきり、いつも通りの満面の笑みで迎えてくれると思っていたヴェインも、すこし違和感を覚えたらしく、「どうした?」と聞くが、そのセリフはラーサーの態度を硬化させた。 どうしたかなど、ラーサーにも良くわからない。 ただ、兄が、これほどまでに固執したこの小瓶は、一体、どこの女性に与える物だったのだろうと思うと、腹立たしくなったのだ。 流石に、これは素直に口に出せないラーサーをなだめるように、ヴェインはラーサーを抱き寄せて、そっと兄とは対照的なサラサラの髪を撫でた。 「………この小瓶は、とても思い出深い品物だ。――――『将来の伴侶の方に差し上げなさい』と賜ったが………、これは、お前の元にある方がいいだろう」 やっぱり、どこかの女性にあげるつもりだったんだ、とラーサーはムッとした。でも、どうして、これが、ラーサーの元にあった方がいいのだろう。ラーサーは考えがまとまらずに思考が混乱し始めた。 「―――私は、妻を娶るつもりはないからね………よほど、情勢が悪くなれば、そんなことも言っていられないが……、だから、これと、もう二つ、これは空の小瓶だ、これは、お前が持っていなさい」 どこかきっぱりと言い切ったヴェインに、ラーサーは聞いた。 「なぜ、兄上は、ご結婚しないのですか? 沢山の………女性が候補に上げられているのは、知っています」 「ああ、そうだな………でも、私は、結婚しない。と言うよりは、出来ないだろう。………私のような人間に、息子なり娘なりが出来るのを厭わしく思う物が居るのだ。だから、私は、しないだろう」 「兄上は立派な方ですっ!!!」 自分を卑下するような言い方は許しません、とラーサーはギッと兄をにらみつけた。そんなラーサーに、ヴェインは微苦笑した。 「しかし、これが事実だ」 だから、これは取っておきなさい。有無を言わせないヴェインにラーサーが折れた。 「解りました、こちらは、大切にいたします」 「ああ、大切にしておくれ? ………それは、私たちの母上からの賜り物なのだから」 「えっ?? 母上の??」 ラーサーはまじまじと手の中の小瓶を見やった。美しいガラスの小瓶。これが、母の数少ない形見の品のひとつ………。 「大切にするんだよ、ラーサー。………そして、その残りの小瓶は、お前の『お后候補』の方に差し上げると良い」 まだ早いがね、でも、『すぐ』だ、とヴェインは寂しげに笑った。 兄は、時折、こうして、何かを諦めたような、寂しげな――――痛そうな顔をするときがある。 「………兄上、兄上は、私邸で、どのようなお仕事をしているのですか? なぜ、ここでは駄目なのですか?」 踏み込んだ質問だとはラーサーにも解っていた。おそらく、私邸のことも、ヴェインはうっかり口にしてしまっただけだろうから。 「お前の思っているような仕事や、噂話のような仕事ではないよ――――母上からの思い出の品や……大切なものを手元に置いておく、小さな部屋を買い上げた。ベッドもないから、そこに泊まる場合は、床で寝る。椅子もソファもない。人を入れるつもりが無いからね。………ひとりで、考えをまとめたいときに良く向かう。私も、一人になりたいときがある」 自嘲めいた笑いを浮かべるヴェインは、むしろ、一人になりたいと言うよりは、一人が寂しいと言っているようにラーサーには感じられた。 どこかで、誰にも踏み込ませない一線を引いている兄は、物理的にも一人になりたがるときがあるのだろう。 そこで、大切な思い出に囲まれている兄を想像すると、ラーサーは胸が痛くなる。 「兄上」 「ん?」 「ラーサーは、兄上の側にいます」 「………ああ」 「何があっても、兄上のおそばにいます」 兄は、返事を曖昧な笑みで返した。 ラーサーは、この香りを聞くたび、兄の悲しい部屋の話と。 兄とかわしたささやかな約束を思い出すだろう。 みんなから恐れられる男の、真実の姿は、ラーサーだけが知っている。 PERFUME/END こだわり派の兄上。こういう些細なことに気を付けてそうなので。 高級インクに薔薇油を使ってるのはホントです。 2009.02.25 shino |