ろさりうむ


 隣国から友好の証にと贈られた薔薇を育てている場所が、皇帝宮の一角にある。
 そのロサリウムは美しい玻璃で出来た温室になっており、時折、ラーサーは兄君がそこに出入りしているのを知っていた。
『あの』ヴェイン・ソリドールが花など愛でるはずがない、と口の悪い人達が笑うのもラーサーは知っていたが、それ以上に、ラーサーは兄君が心優しい性質だと言うことも、良く知っていた。
 未だ、6歳のラーサーはロサリウムに立ち入ることを許されては居なかったが、長い間の兄君観察で、執務に疲れたときに、不意にここに立ち入るというのを知っていた。
 お疲れの兄君のために、お茶を入れて差し上げたい、という兄思いの一心で、ラーサーはロサリウムの中へと入っていった。
 中は、温室特有の湿り気を帯びた暖かさで、ラーサーは一瞬、頭がぼうっとするのを感じた。
 兄上のお好きなのは、香りの良い紅茶。
 兄上は、色々と口には出さないが(これは近従を困らせるわがままになってしまうというのを良く知っているためだ)細かなこだわりを各所に持つ方だった。
 普段の時は、一般の者と変わらない廉価な茶を飲むが、疲れたときや茶を純粋に楽しむ余裕があるときは、香りの良い特別なものを飲む。ラーサーには甘いらしく、普段の茶を飲んでいるときにラーサーが不意に現れると、控えの者に新しい茶を入れ直させてから、夜の執務の傍らに下げさせた茶を別な形の飲み物にアレンジしているようだ。
 酒も好むようだが、溺れるような飲み方はしない。食事にはそれにあったものを共に飲むのはマナー上の理由だろうが、一人、夜に私室で酒杯を傾けるときは、琥珀色の火酒を好んでいるようだった。時折、それを、紅茶に混ぜて飲むこともラーサーは知っている。あの兄でも、時折眠れないことがあるらしく、そんなとき、彼は、紅茶に少しの酒を混ぜるようだった。
 ラーサーは、そんな兄に今日お出しするのはどんな紅茶が良いだろうか、と真剣に悩み、ひとつの茶壺に出逢った。
 厳重に封をされた茶壺は、ラーサーの部屋の戸棚の中に置いてあった。女官に聞いてみるが何だか解らないとみんなが言う。ただ、一人の女官がそわそわした様子だったから、ラーサーはあとで、どうしたのかと聞いてみた。
 すると、女官はこの茶壺は、とても特別な工夫のしてある茶であるから、兄君とご一緒に飲めばいいだろうと助言をしてくれた。
 ラーサーは、その言葉を素直に信じた。兄上と一緒に特別なお茶をする、という女官の言葉も気に入って、ロサリウムに忍び込んでみたのだった。
 もしかしたら、もういらっしゃるかもしれない、と思ったラーサーの思惑通り、ヴェインはロサリウムの奥の椅子に座っていた。
「兄上ー」
 近づいていくと、兄はまるで死んだように眠っていた。顔色も余り良くない。日頃の無茶な仕事が悪いのだ、とラーサーは悲しくなった。
 せめて、もっと自分が大きくて、兄の分の仕事の少しでも出来るようになれば、兄にこんな無理をさせなくて住むのに。
 そうおもうと、切なくて目頭が熱くなるが、それならば、せめて目覚めたときに、素晴らしいお茶でヴェインを迎えてさしあげようとラーサーは鼻息荒く、お茶の準備を整え始めた。


 あたまがぼうっとする、とヴェインはらしくなく、しっくりこない覚醒に眉をひそめた。
 仮眠は、ほんの少しだけ摂るつもりだったが、思いの外長く眠ってしまったらしい、やらなければならない仕事を頭の中で反芻して、立ち上がろうとしたとき、ヴェインはテーブルを挟んだ椅子にちょこんと腰を下ろす弟の姿に気が付いた。
「ラーサー?? どうしてここに??」
 驚いて声を掛けると、ラーサーは、ぷぅ、と頬を膨らませた。
「兄上は、お顔の色が優れません!! 今すぐ、すこしお休みになって下さいっ!!」
 かわいらしいお説教に思わずヴェインが相好を崩した。
「私ならば大丈夫だ………ん? 茶の仕度をしてくれたのか」
「はい、兄上が……お疲れのようならば、ご一緒はしませんが………」
 気を遣って言うラーサーにヴェインはひとつため息を漏らした。
「お前に気を遣わせてしまっているようでは、私もまだまだ駄目だな。――――一緒に茶を頂こう。さぁ、茶器を貸してご覧」
「いいえっ! 兄上はお休み下さい。僕も、一人でお茶の支度くらい出来ます!!」
 本当ならば、火傷をするのではないかと思ったヴェインは、茶の仕度を止めさせたかったところだが、折角の気遣いに負けた。
「では、茶の準備はお前に任せよう」
「はいっ!!」
 あれこれ思案しながら悪戦苦闘している弟君の姿は、ヴェインの疲れた心を和ませるには十分だった。思わず、口元がほころぶ。それを見たラーサーが「笑わないでください!」と可愛らしく怒り、また、ヴェインは笑みを濃くする。
 この何気ない幸せなひとときが―――たまらなく愛おしいとヴェインは思う。
 この幸福を護るためならば、どんなことでもしていこう、とヴェインは幸せを噛み締める。
 小さな弟が、一生懸命に入れてくれた茶はかぐわしい香りがした――――が、ヴェインには何か、妙に引っかかるものがあった。
(香りが………キツすぎる)
 花の香りと果物の香りを人工的に付けた類の紅茶ならば、ヴェインも時折飲む。が、しかし、ずいぶんと、甘過ぎる香りが漂う。
「では、兄上が先に頂こう」
 口元に持っていき、ほんの一口口に含んだとき、舌先に違和感を感じた。コレは、毒だ。ヴェインは、ある程度毒物に対する耐性を訓練して付けている。それは、父帝にも言っていない。ラーサーにもそれとなく訓練させておきたいとは思ったが、あまり気持ちの良いものでもないだけに憚られていた。
 それは毒だ、と言おうとしたが、舌先が麻痺したように動かない。
「じゃあ、僕も頂きま………」
 カップを口に運ぼうとした弟の姿を見て、咄嗟にヴェインは動いた。
 腕を伸ばし、弟の手からティーカップを無理矢理奪って、投げ捨てた。白磁のティーカップは地面に落ち、割れた。何のことだか解らないと言うような顔をしていた弟の手が、紅茶をつぎ直すようにポットに伸びたのをみて、ポットも床にたたき落とした。
 肩で荒い息を付いて、弟を見やったヴェインは、そのつぶらな瞳が、うるうると潤っているのを見た。
 弁解しようと思ったが、言葉が出ない。
 泣いてしまいそうだと思った通り、ぽろり、と真珠のような涙がこぼれ、ラーサーは兄から視線を外した。
「………お疲れの所、お邪魔いたしました………兄上、お疲れのようですから、どうぞお休み下さい。ラーサーは、部屋に戻ります」
 無理矢理創った痛々しい笑顔でそう告げると、ラーサーはパタパタと走り去ってしまった。
 ラーサーを護るためとはいえ、ラーサーを酷く傷つけてしまったことを、ヴェインは後悔したが、それよりもハッとした。この紅茶を、どこでラーサーが手に入れたか。それによってはラーサーの命がやはり危ないのだ。
 忌々しいことこの上なかったが、毒消しを呷ってからヴェインはラーサーの部屋へと走り出した。
 必死の形相で皇帝宮を走るヴェインを、周りの者達やジャッジ達は奇異な目で見つめていたが、ヴェインには気にする余裕はない。ラーサーの部屋のドアを開け、彼を捜したが、ラーサーはどこにも居なかった。
 これが皇帝の耳にはいるのも、あまり芳しくないと考えたヴェインは、女官にラーサーが見つかったならばすぐに知らせるように言付けて、ラーサーの隠れそうな場所へと向かった。



 お茶を、ご一緒したかっただけ。
 それなのに、兄のあの態度はあまりにも酷いのではないか、とラーサーは思った。
 止めどなく涙が溢れ、目が痛いし、頭も痛い。お疲れの所を押し掛けたという短慮なことも知っている。
 兄上とご一緒したいという自分の感情だけで、兄上のことを考えていなかった。いままでも、何度も押し掛けられて、迷惑な思いをしていらしたのかもしれないとおもうと、ラーサーは涙が溢れて止まらなくなってしまった。
 兄上は、とても優しい。あの兄上の側にいるのが、ラーサーはとても好きだった。
「兄上に、嫌われたのだろうか………」
 もしくは、最初から、好かれていなかったのではないだろうか。
 ほこりっぽい図書館の片隅で蹲るラーサーの耳に、カツン、と足音が聞こえた。これは、軍人の足音だ。そして、ここに来る軍人ならば、たいていのものは鎧に身を固めているが、この足音の主は鎧を着ていない。
(兄上だ………)
 ラーサーは、今、兄に会いたいとも会いたくないとも思った。
 嫌いにならないで欲しい、けれど………あの、先ほどの兄の態度を見れば、何か、ラーサーが兄を怒らせるようなことをしたとしか思えない。
 ヴェインの苦労も知らないで、一緒にお茶をなどという甘えを怒ったのだろうか。それならば、謝ろうとラーサーは思った。謝って、それでも、兄上がお疲れのようだったから、せめて一時でも休んで頂きたくて、お茶を用意したとちゃんと話そう。意を決して本棚の影から出てくると、そこにいたのは、兄ではなかった。
 それに拍子抜けしていたラーサーだったが、さきほど、分析したとおりだった。

『こんな所にくる軍人ならばたいていは鎧を身につけている』

 けれど、この人物は、鎧を身につけていない。そして、この皇帝宮にて、剣を、す、と抜きはなったのだ。
 何者だ、という誰何の声など出なかった。ソリドールの男子として、この者と戦わなければ、と思うが、後ずさりするだけで、何も出来ない。
 誰か、と声を出したくても、恐怖の余り声も出ない。このまま、斬り殺されるのはいやだ、とラーサーは思った。このまま、死んでしまったら、兄上にお詫びすることが出来なくなってしまう!!
「………おとなしいガキは大好きだぜ、さ、ラクに逝かせてやるよ」
 にや、と男が笑ってラーサーに狙いを定めた。
「兄上ーーーーーーっ!!」
 絶叫に、一瞬、男の顔がイラついたように醜く歪む。それを見ながら、ラーサーは必死で逃げた。足腰が震えて、ろくに走れなかったが、とにかく、人の多いところまで!
 まずは、そこまで走る!!!
 この時間はジャッジ達の交代時刻で詰め所に戻る。ここからは遠い。一番近くで、兵士がいる場所………。
 回廊だ!! ラーサーは、ものすごい勢いで男の横をすり抜けると、一目散に走り出した。
 後ろから、男が負ってくる。子供の足だ。限界がある。次の手段を考えなくては、と思うが、ラーサーは丸腰だったし、剣があっても、今のラーサーの力量では、あの男には敵わない。
 逃げるだけでは、もう、限界だ。どうしよう………、と思ったときだった。
 足音が聞こえてきた。この足音には聞き覚えがあった。
「兄上っ!!?」
 その小さなラーサーの声を聞きつけたらしい、『ラーサー、どこに居るんだ!』とヴェインの焦った声が聞こえてきた。
「兄上、ここです!! ラーサーはここにいますっ!!」
 力の限り声を張り上げる。走るスピードが落ちて、男が、ラーサーに迫ってきた。ラーサーは、すぐに兄が来てくれる、と確信した。
 兄ならば、何とかしてくれる。兄が辿り着くまで、なんとかすればいい。
「兄上ーーーーっ!!!」
「ラーサーっ!!!」
 ラーサーの姿を視認したヴェインは、同時にその状況も正確に把握したらしい。一瞬、すぅ、と目を細めてから、すらり、と剣を抜きはなった。
 ラーサーには、それが、とても美しく映った。
 その光景に目を奪われていたラーサーは、
「下がっていなさい」
 耳許で小さくささやかれた言葉を聞くまで、いつの間にか、ヴェインがすぐ側を横切っていったのも気が付かなかった。
 ヴェインは鮮やかに剣を繰り出した。剣術指南の先生でもこうも美しく戦うことはないだろうと思えるほどの、見事な戦いぶりだった。
 鋭い一撃で男の剣をはねとばし、腕を薙ぎ、床に組み伏せた。
 騒ぎを聞きつけて集まった兵士達に男を受け渡すと、剣から血を落としてゆっくり鞘に戻してからラーサーの元に寄った。
 膝をつき、ラーサーの顔をのぞき込む。
「怪我はないか?」
 優しい声音。いつもの兄上だ、とラーサーは泣きそうになった。どうせ、目は腫れているし、みっともなく泣きじゃくっていたのはヴェインにはお見通しだろう。
「はい、ありません………兄上こそ、ご無事でしょうか」
「兄は大事ない――――ラーサー、無事で良かった」
 ヴェインは、ラーサーの身体を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。兄の暖かい感触に、ラーサーの眦から思わず涙がこぼれた。
「………兄上、さ、さきほどは、おつかれのところ、申し訳……」
「ラーサーは優しい子だ………あれは、私に非がある。済まなかった。私は疲れていたわけではない。お前と一緒に茶を飲むことが出来たならば、私の疲れなど吹き飛んでしまう」
「でも」
 だったら、なんで、あんなことを? そう問いかける弟に、ヴェインは真実を教えるべきか、逡巡した。
 この弟だけは、護りたい。この白い心は、そのままに、守り通したい。
 この生活の至る所で、ラーサーや自分の命を奪おうとしている者達がひしめいていることを、いまはまだ、伝えたくはない。
 それを伝えることこそが弟の身を護るためだと言うことを知っては居ても、今はまだ、何も知らないままで――――いや、本当は、沢山のことを知っているのだろうが、それでも、まだ、この子には、汚い世界を見せたくない。それが、ヴェイン一人の、全くなエゴだと知っていても。
「………一口、口にしたのだが………」
「はい」
「――――あの紅茶は古くなっていた。アレをお前が飲めば腹を壊してしまう。ちゃんと説明をしなかった兄が悪い………ラーサーは、何をすれば、兄を許してくれるかな?」
 ラーサーの顔に、安堵の色が広がった。兄に嫌われたわけではなかったんだ、と。
 それを見て、ヴェインは罪悪感を覚えるが、それでも、この子の心を守れたのだと思えば安い痛みだ。
「では、兄上、今日は、僕と一緒に休んでください」
「それでいいのか?」
「はい。兄上、今日は、夜更かしせず、早く眠ることにします。ですから、兄上もそうなさってください」
 優しい子だ、とヴェインは思った。
「では、その前に、ロサリウムで茶を飲み直そう。………本当に、済まなかった」
「いいえ………でも、兄上はあれを一口召し上がったのです………大丈夫でしょうか」
「私は薬を飲んで置いた。だから大事ない。――――さぁ、おいで、とっておきの茶と焼き菓子を用意させた」
 ぱあっとラーサーの顔が輝いた。
 美しく香しい薔薇の花。けれど、その茎には棘がある。隣国からの友好の印――――けれど、それは、その隣国への軍事介入の理由にされた。

『表面上はこうして友好を装いますが、お忘れめさるな。この笑顔の裏には鋭い刃があることを』

 こじつけも良いところだが、こじつけででも隣国を支配するという父帝の考えだった。
 いくつもの国が父帝のせいで消え、そして、その血塗られた道上に、自分が立っている。
 まだ、それを知らなくても良い。今はまだ。
 ロサリウムの薔薇を思いなから、ヴェインは自分勝手な思いだと自嘲した。
 いずれ、ラーサーも大人になる。
 白い心のままだけではいられなくなる。苦しむことも、その白い心ゆえにたくさんあるはずだ。けれど、出来るならば、出来るだけ、その苦しみを知らないでいてほしい。
 この純粋に自分を愛してくれるラーサーから、変わって欲しくない。
 結局、それが望みなのだ、とヴェインは思った。



ろさりうむ・END




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薔薇の下りは捏造です。(笑)
兄上の望みは、覇王とか大きな事じゃなくて、普通に友達とか家族とかだという感じ。
家族を信用し切れていないのはラーサーも一緒なんだけどね……。

2009.02.24 shino