星の降る夜

 もう五歳なんだから、怖いはずがないんだ。


 そう言い聞かせても、真っ暗な部屋はとても怖い。幼い時分は乳母が宿直に付いたが、いまはそれもない。だから、時折、こうして、とても怖い夜を一人で過ごさなければならない。
 とても、怖い夢を見た。大きな怪物がアルケイディアを襲うというものだ。怪物と目があって、ギザギザの歯が列んだ大きな口がガバっと開いたとき、ラーサーは恐怖のあまりに飛び起きた。
 心臓もバクバク言っている。
 本当は、眠らなければならないのに、どうしても寝台に横になる気がしない。
(どうしよう、どうしよう………)
 半ばパニックになりかけていたとき、カタリ、とかすかな音が聞こえた。この時間帯ラーサーの部屋に来るものなど、誰もいないはずだ。
 扉の外には、兵士が護衛に当たっているはずだが、彼らは身分が異なるゆえにラーサーの部屋に立ち入ることは許されない。
(だれ………!?)
 部屋を抜け、寝室に足音が近づいてくる。気配を殺すような歩き方は、軍人のそれだ、とラーサーは幼いながらに知っていた。
 アルケイディアの情勢が、あまり芳しくないことはラーサーも知っている。いざとなれば、幼い皇帝候補を誘拐または殺害するなどして、状況を打破する可能性は否定できない。それは、家庭教師達からも、何度となく、告げられていた。
 静かに、寝室の扉が開かれる。
 その人物が手にしていた灯りが、ほのかに部屋を照らした。
 そっと、ラーサーの寝台の端に腰を下ろした。寝台が、その人物の重みに、沈む。ラーサーは、心臓が破裂してしまうのではないかと思うほど、緊張していた。
 その人物が、動いた気配がした。近づいてくる。ラーサーは、声も出せずに恐怖に身を竦めていたが、訪れたのは、意外なほどに優しい感触だった。
 暖かくて大きな手。袖口から、幽かな香りがした。ラーサーには、その香りに聞き覚えがあった。知的で洗練されたスパイシーな香り。それで居て、華やかさと少々の甘さを感じさせる優美な香りは、兄が特別に誂えさせているものだった。
「あにうえ………?」
 思わず声に出してしまうと、優しくラーサーの頭を撫でていた手が、びっくりしたように、一瞬強ばって、また、優しく髪を撫でた。
「起こしてしまったか、済まない」
 執務の時には聞いたこともないような優しい、穏やかな声音だった。
「いえ……兄上のせいではありません。眠れずに居ました」
 ラーサーは、ゆっくり身体を起こした。兄・ヴェインは、何かにつけてラーサーを気に掛けてくれているようだったが、なにぶん多忙だ。朝から晩まで、仕事のし通しだと言うことはラーサーでも解る。
「眠れずに? なにかあったのか?」
 心配して聞いてくるヴェインの瞳を見て、ラーサーは急に恥ずかしくなった。この、完璧な兄に、『怖い夢を見た』というのは、憚られる。思わず言い淀んだラーサーだったが、ヴェインは穏やかな微笑で、辛抱強く続きを促していた。
 ラーサーは、おそるおそる、口を開いた。
「怖い夢を見ました………それで」
 兄に笑われて、嫌われてしまう、とラーサーは咄嗟に思った。けれど、ラーサーに掛けられたのは、意外な言葉だった。
「それならば仕方がないな――――少し落ち着くまで、起きていると良い。無理に眠ろうとしても、かえって眠れないものだから」
 拍子抜けしたラーサーは、「兄上も、怖い夢をみたことはあるのですか?」と聞く。
 ヴェインは微苦笑を浮かべて、懐かしむように言った。
「あるさ」
「兄上が、怖い夢を………? そんなことは、考えづらいのですが」
 ラーサーの率直な言葉に、ヴェインは少しだけ目を伏せた。
「ずっと――――怖い夢を見ていた時期がある。毎日毎日、怖くて眠れずにいた。本当だ」
「本当、なんですか?」
「そうだ………一人で、冷たくて、暗い場所で、ただ、歩き続ける夢だ。怖くてたまらなかった。………けれど、ある夜から、ピタリと止まった」
 ふふ、とヴェインは笑った。ラーサーは俄然、その『ある夜』の事が気になった。
「兄上、もしよろしければ、その夜のことをお教え下さい」
 ヴェインは、ぽん、とラーサーの頭に手をやった。
「お前と、初めてであった日だ――――母上に、お前を預けられて、抱き上げた。小さくて、壊れてしまいそうだった。………私はそれから、怖い夢を見なくなった」
 語られた内容に、ラーサーは驚いた。冷酷とまで言われる兄だと言うことは良く知っていたから。
「………この話は、みんなには内緒にするように」
 照れたのか付け加える兄の姿に、ラーサーは、その日の時分の記憶がないことが悔しくてたまらなくなった。
「勿論、みんなには内緒です………でも、」
 でも、と呟くラーサーに、ヴェインは「ん?」と優しく聞き返した。
「でも、やっぱり、怖いです………他の子たちは、お母様がいらっしゃって、一緒に眠ってくださると聞きました。僕には、お母様はいらっしゃらないんですか?」
 ラーサーの質問に、ヴェインは困った顔をした。他のものが見たら、卒倒するかもしれない。けれど、ラーサーは真剣だった。
「私たちの母上は………そうだ、丁度、こんな、星の降るような夜に亡くなった」
「なぜですか?」
 悲しげに聞くラーサーに、ヴェインは困り果てた。まさか、自分が上の二人の兄を殺したショックで心を病み、亡くなったなどと………この弟に告げるわけには行かない。
「人は誰でも寿命がある。――…母上は、ご病気だ、ご病気で亡くなられた」
 それは、自分自身に言い聞かせるような言葉だった。『事実』を知ったとき、母は『なぜ』と呟いて大粒の涙を流した。
 ヴェインには答えられなかった。
 それから――――皇后は、心を煩った。二度と、ヴェインを見なくなった。ヴェインは、二人の兄と、母を喪い………。
 皇后を喪った父帝もまた、ヴェインを見なくなり――――ヴェインは、父も喪った。ヴェインに残っているのは、この、稚(いとけな)い弟だけだ。
 こんな星の降るような夜。
 皇后の私室の扉の外で、ヴェインは立ちつくしていた。最期の瞬間に――――立ち会うことは許されなかった。
 夜の冷たい空気と、死の足音が聞こえてきそうなほどの、静寂。
 優しかった母を………、殺したのも、結果的にはヴェインだ。その事実に、ただ、立ちつくすほかなかった。
「でも………」
 納得しきれないラーサーに、ヴェインは微苦笑しながら続けた。
「それでは、母上の変わりに、兄がお前の側に付いてやろう」
 ラーサーは、思いがけないヴェインの言葉に、目を丸くした。
「兄上が、ですか?」
 信じられないものを見るような顔で、ラーサーはヴェインを見た。冷酷だという話は聞いたことがある。様々な噂話も、聞きたくなくても耳に入ってくる。
 切れ者………『ソリドールの剣』と称されるほどの剣呑なヴェインは、ラーサーにはとても優しく穏やかな兄と言うことは知っていたが、それでも、信じがたい。
「一緒に、眠ってくださるのですか?」
 半信半疑、聞いてみたラーサーに、ヴェインはゆっくりと頷いた。
「では、兄上、お願いします」
 本当かな、とラーサーは兄を見やる。そんなラーサーの頭をやはり軽く撫でてから、ヴェインは「仕度をしてこよう」と言い残して隣室に消えた。
 そういえば、執務服ではなく部屋着のようではあったが、このまま眠るわけにも行かない。隣室が少しだけあわただしい雰囲気になり、足音を殺しながら宿直の女官などが出入りするのが解った。
 兄上が一緒に眠ってくださるなんて、とラーサーは信じがたい気持ちだったが、隣室の状況を聞く限り、兄は本気らしい。
 程なくして、夜着を纏った兄が現れ、ラーサーの寝台に向かった。
「あの………兄上」
「なんだ、ラーサー」
「ご迷惑ではないですか?」
「迷惑なことなど在るはずがないだろう」
「けれど………お忙しい兄上を煩わせて………」
 くすり、とヴェインは笑った。珍しい、とラーサーは思った。
「執務と湯浴みを終えて眠る前に少し読書をしていた。もうそろそろ休もうかと思ったが―――その前に、お前の所に来てみただけだ」
 それで部屋着の方だったのか、とラーサーは納得した。それにしても、こんなくつろいだ格好で皇帝宮を歩き回る兄の姿も考えにくい。
「さぁ、ラーサー、早く眠りなさい」
 優しい兄の声に促され、ラーサーは「はい」と答えた。一緒の寝台にヴェインが入ってきたから、ラーサーは躊躇いながら、ヴェインにしがみついてみた。
 ヴェインは甘えたラーサーの行動をとがめるわけでもなく、ただ、優しくラーサーの背を撫でていた。
 兄のぬくもりと手の感触が気持ちが良くて、ラーサーはうとうとと、緩やかな眠りについた。
 

 夢に見たのは、兄と一緒に遠出をする夢だった。
 早く大きくなりたい、とラーサーは思った。
 早く大きくなって、この兄を支えるほどの存在になりたいと。


 そんな夢を見ているとは知らないヴェインは、小さく呟いた。
「――――急いで大人になろうとしなくて良い………お前は、まだ、小さいのだから……」
 急がせているのが、自分だと、ヴェインは気づかない。



星の降る夜・end



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兄上と一緒に寝て欲しいという欲望が……
いや、兄上は、優しいと思うんだ。ヴェインの強さも弱さも全部ラーサーにあるような気がする。

2009.02.23 shino