invoke こんな夢を見る。 たとえるのならば、無明の闇。水もない、乾涸らびた、夜の凍てつく砂漠。 それが自分の生きている世界だ、とヴェインは思っていた。 そこを、ただ孤り、彷徨う。あてどなく。ただ、歩く。そうあれと言われてきたから、歩く。歩き続ける。漠々と広がる砂の大地は、そこに恐ろしい敵を潜ませ、一瞬たりとも気を抜くことは出来ない。 油断―――すなわち、死、だ。 どうせ死んだとしても、対して変わりのない光景が続くのだろう、と15年の人生でそんな諦観を身につけてきたが、それでも、まだ、死にたくない。何もしていない。何も見ていない。そもそも、したいことがあるのかも、解らない。 なにをしても、何を見ても、何を手に入れても、多分、渇きは癒されないのだろうとヴェインは思った。 皇帝候補者といえど、上に優秀な兄たちが居る。そもそも皇帝すら占拠で決まるこの国で、自分に玉座が回ってくることはないし、たとえば、それを手に入れても、ヴェインにはやることが見あたらない。国のために、と言われても、今ひとつ、ピンとこない。護るべきものなど、ヴェインの手の中にはない。 目下の所、ヴェインの将来は、軍を率いるものとして決まっていた。軍部の中枢を掌握する――――それほど、魅力的なとにも思えなかった。けれど、望まぬ将来といえども、清らかな手ではいられなかった。家のため、国のため、手を汚してきたことも確かだったし、それゆえに、ヴェインは一目置かれる存在となっている。 与しやすい皇帝候補者と思われなかったのは幸いだったが、それでも、取り入ろうとする輩や、彼の命を狙うものも多くいた。 そんな毎日に、ヴェインは疲れ果てていた。 一日の仕事を終えたヴェインは、用意されていた水差しから水を呷った。最近、喉が渇く。けれど、水をどれだけ飲んでも、乾きは癒されない。長椅子に腰を下ろし、女官が水差しと一緒においていった果物を見やった。 季節の果物を盛り合わせた豪華なものだった。 『差し出がましいようですが』と女官は帰りざまに言った。『すこしは、お食事をお召し上がり下さいませ。それと、お体もお休み下さいませ』 解らないように、注意はしていたつもりだったのに、目聡いものだ、とヴェインはかすかな嫌悪感を覚えた。正直なところ、食欲が落ちていた。最近では眠りも浅く、何となく、明け方まで本を読んで過ごすことが多い。睡眠不足が顔に出る体質ではなかったが、女官はよく見ている。 あの女官の言葉に従うわけではなかったが、果物くらいなら少しは入るだろう、とヴェインは甘く熟れた芒果の皮をするすると手で剥いて、口に運んだ。果物の甘さに、思わず、ヴェインのこわばっていた気分が少し和んだ。滅多に果物など口にしないたちだったが、これは良いかもしれない、と思ったところにあわただしく、ドアがなった。 「ヴェイン様っ!」 何事だろう、とヴェインは訝りながら「入れ」と命じる。白い衣装を纏った女官が、あわただしく一礼した。 「お、お休み中、失礼いたします」と前置きしてから、彼女は一礼して続けた。「………申し上げます、皇后様に於かれましては、先ほど、無事に男のお子様をお上げ遊ばしました」 彼女の言葉に、ヴェインはそういえば、皇后が懐妊し、臨月を迎えていたことに思い当たった。 「そうか、それは良かった。母上には、後ほど見舞いに参る」 「はい、失礼いたします」 またもあわただしく去っていった女官の騒々しさを部屋にかすかに残したまま、ヴェインは呟いた。 「皇帝候補者………か。――――また、余計な混乱の種を……、これが、女であれば、それなりの使い勝手もあったろうに」 ヴェインは、兄たちから弟として慈しまれたことがない。臣下の者達はそう言うことがあると知って、少なからず胸が痛みを覚えたが、それは、すぐに、淘汰されていった。それを思い出して、ヴェインは、ふ、と笑った。 自分も、兄たちと同じように、新しく生まれた『弟』を慈しむことはない。 せいぜい、首を駆られない距離感を保ち続けるくらいの関係だ。そんなものだ。 それでも、見舞いと祝いを兼ねた品物を持って新しく生まれた弟の所には行かねばならず、ヴェインは憂鬱な気持ちで皇后の部屋へと向かっていった。 人がはける頃の時間を見計らっていたとおり、上の兄たちとは会わずに済み、早々に退室しようと思いながらヴェインは寝台に横たわる皇后の元に寄った。 「ご機嫌よろしくございます、母上………お疲れさまでした」 堅苦しい挨拶に、皇后は微苦笑し、「ありがとう、ヴェイン。………少し痩せましたね」と声を掛けた。 「いえ、そんなことは」 「駄目ですよ、自分の身体はちゃんといたわりなさい。………あなたは、少し、自分を大切にしない傾向にあるようですよ」 流石の言葉に、ヴェインは言葉に詰まった。 「さ、ヴェイン………、あなたの弟ですよ。仲良くしてやってね」 皇后から差し出されたのは、小さな小さな赤子だった。腕の中の赤ん坊は、まじまじと、ヴェインを見つめている。 「どうしました、ヴェイン」 「あ、いえ………これも、私の姿が見えているのかと思いました……」 「これ、ではありませんよ。――――ラーサーです。良い名前でしょう?」 「ラーサー………」 口の中で小さく反芻すると、赤ん坊は自分のことだと察したのか、小さな歓声を上げながらヴェインの髪に手を伸ばした。引っ張られ、ヴェインは思わず吃驚するが、落としてしまわないように、力を込めて、今度は壊してしまいそうでおろおろする。 これは、どうやって扱えばいいのだろうかと途方に暮れかけたとき、すり、と赤ん坊はヴェインの頬に自分の頬を寄せてきた。 暖かくて、ふわふわした感触だと思った。 「まぁ、ラーサーはお兄さまが大好きなようね」 「………だれにでも、するものなのではないのですか?」 「上の二人が来たときは、泣き出しました。………皇帝陛下がいらしたときも、少々ぐずつきましたよ。あなたは、この子に、気に入られたのね」 その皇后の言葉が、するり、と胸の中に入っていった。 不思議な気持ちだった。 血を分けた兄弟、と言われても、ピンと来ないけれど。それでも、腕の中のこの存在が、酷く、愛おしく思えた。 「………ラーサー……」 名前を呼んでみると、ラーサーは満面の笑みを浮かべた。 「ヴェイン」皇后は、静かに、歌うように呟いた。「………あなたと、お兄さま達は、お年も離れているわね。あなたとラーサーほどではないけれど。………あの子達も、ソリドールの名を負うものとして、賢明に生きているの。でも、その為に、すこし、周りに目を向けることを忘れているわ。ヴェイン。あなたは、この子に、あなたがして欲しいことをして差し上げなさい。きっと、あなたの為になるわ」 「私の、して欲しかったこと………」 ――――慈しんで欲しかった。 一緒に、何かをしたかった。剣の稽古でも、勉強でも、執務でも何でも良かった。 お茶も取ったことは殆どない。会話を交わすことさえ希だ。 目を合わせることすら今はなく、二人の兄君のぬくもりも知らない。 ヴェインは腕の中赤ん坊を見つめた。腕の中のぬくもり。それはたしかに、ヴェインが欲しかったものだ。抱いてやっているようで、この赤ん坊から、優しいぬくもりを受け、ヴェインは幸せな気分になった。 ヴェインは、そっと、赤ん坊を皇后に渡した。腕が寂しいが、それでも、確かに、胸に宿ったぬくもりが、ヴェインを満たしている。 「ヴェイン、おいでなさい」 皇后に呼ばれ、ヴェインは寝台の端に寄った。皇后は柔らかく微笑み、そして、ヴェインの頭を優しく撫でてやった。 「母上……私は、こんな、子供ではっ……」 思わず憤激するヴェインだが、効果はない。母にはすべてが解っている。ヴェインの孤独も、ヴェインの渇きも。皇后という立場ゆえ、それを満たしてやることは叶わなかったが、それでも、ヴェインに今、伝えなければ、と思った。 「ヴェイン、私の可愛いヴェイン………愛しているわ」 「母上………?」 漠然と不安を覚えたヴェインは、母の顔を見た。美貌は、柔らかな笑顔を乗せていた。 「ソリドールに嫁して、色々ありましたが………母は、あなた達4人の息子達に恵まれて幸せでした。ヴェイン、あなたは、幸せにおなりなさい」 こくん、とヴェインは頷いた。 「そして、ラーサーを頼みますよ。あなたも、ラーサーも、まだ小さいけれど………あなた達の幸せが、訪れるはず……」 はい、とヴェインは呟いた。胸が痛くなって、頬に涙が一筋伝った。 「泣かないで、ヴェイン………ずっと、お母様はあなたを見守っていますからね」 こくん、とヴェインは頷いた。声にならない。声を出せない。やさしく、母はヴェインの身体を抱きしめた。暖かくて、とても、幸せな場所だった。 愛されているのだ、とヴェインは思った。こうして、抱きしめることで、愛情は伝えられるのだと。 言葉には出来なかったが、ヴェインは静かに泣きながら、母の腕の中にいた。 生まれて初めて、暖かさを感じさせてくれた小さな弟。 その為ならば、どんなことでも厭いはしない。 だから、この子の行く末が幸福であるように………。 声なき祈りが天に満ちていく。 その日から、ヴェインは怖い夢にうなされることはなくなった。 invoke.end ラーサー様誕生日捏造です。兄は、きっと赤ん坊のラーサー様に癒されたんだ! と激しく主張したい紫延です。 ある意味、ヴェインの転落人生の始まりの瞬間かもしれない。 2009.02.11 shino |